髙田家について 「代々の宮中御装束のこと」
私ども髙田家は宮中で皇族方が御使用になる御装束を調進し、現在に至っております。第二十三代髙田義男の代からは、古代の染織品の研究にも手を染め、正倉院宝物染織品の錦や羅の調査や復元模造に携わり、文化庁、国立博物館からの委嘱でおびただしい数の歴史的染織品、装束、小袖類の調査、復元、模造、修補をさせていただいております。 江戸時代以前の髙田家資料については、天保六年(1835)に宮廷よりいただいた「髙田出雲掾受領口宣案」という任官の辞令書や皇女和宮御装束控裂(ひかえぎれ 見本の生地)など多数のものが残っております。有栖川宮家の資料の中に髙田家が後水尾天皇(1596-1680)や霊元天皇(1654-1732)に装束を調進した記録があり、その他の公家の日記の中にも登場しております。また元禄十四年(1701)には初めて出雲掾(いづものじょう)の位をいただきました。 室町時代については、山科教言(のりとき)が内蔵寮頭(くらりょうのかみ)に任ぜられ、これはその後山科家の世襲となりました。内蔵寮頭は、宮中の高位の方々の装束、調度を扱う役職で、髙田家はここに装束を納めてきました。 「蛤御門の変」の後は、東京遷都にともなって、明治政府から東京に移るように命じられ、皇室から東京・麹町・中六番町の土地を拝領し、これ以後、宮内省、宮内庁御用達となりました。上京にあたって政府に提出した由緒書が残っており、家系や家業のことなど知ることができます。 明治以後も、五代の天皇はもちろん、皇族方の御装束をお作りし、平成御即位式・御婚儀、令和御即位式ほかの御装束も今なお、調進し続けております。 装束といっても千年以上の歴史があり、その間公家の格式を表わす制度として重んじられてきました。古くは聖徳太子が隋の服制にならって定められた「冠位十二階」の制があり、冠位制はいくたびか改訂され、奈良時代の「養老の衣服令」では、天皇は白、皇太子は黄丹と決められております。以後も若干の変化はありますが、現在でも天皇陛下の御束帯の上着は白や黄櫨染(こうろぜん)、皇太子殿下は黄丹(おうに)と、基本的なところは変わっておりません。親王、侍従の方々は紫、以下は緋(あけ)、緑、黄と続き、緑以上は絹、黄以下は麻布を使用しております。 御調進にあたって永年にわたる変化や技術そのものの消長などを勘案しつつ、いろいろと工夫しております。天皇陛下と親王方とは色だけでなく仕立て方が違うため、裁縫のために独自の工房を作り、古式の染色を守り、再現するために職人を育てて参りました。 昭和初年、その共同研究の調査監督であった髙田義男は、昭和天皇の御即位の際、黄櫨染の技法を復活させて御袍(ごほう)を製作いたしました。黄櫨染は、櫨(はぜ)の樹皮を乾燥して煎じ、これに蘇芳(すおう)を加えて、石灰を媒染剤にして染める染色法です。嵯峨天皇の弘仁十一年(820)に天皇の御袍の色として黄櫨染が定められ、使用されるようになった由緒ある色でありますが、その染色法は室町時代に途絶えてしまいました。中国の帝王が用いる赭黄(しゃおう)色に従うものとされ、太陽の色を象徴するといわれております。「延喜式」にもその染色法が記されておりますが、染める技術が誰もわからないため、色々研究、試行し、復活することができました。現在でも黄櫨染については正式に染める方法を熟知しているのは当方のみとされております。また下の御着物は紅で染め、そのために山形産の紅花を続けて購入いたしておりました。ところが戦争の影響で山形の紅花の生産が中断し、戦後復活をはかりましたが種が無くなってしまいました。しかしこの時に髙田義男が山形の方に保管してもらっていた種が役に立ち、復活できたということが、現在山形の方々のお話により知ることができます。 御装束を調進していていつも苦労することは、公家の格式にかなったものを製作することです。優雅さ、品格を備えた公家の美意識を大切にするため、常に調査研究を怠らず、古式にのっとるようにしております。とはいえ、時代の流れの中で形や色には変遷があります。前例にならうだけでなく、自らの解釈も必要になってきます。 現今、こうしたたくさんの困難な作業を進めていく上で、だいぶ失われたとはいえ、髙田家に残された資料が役立ち、宮廷装束が今なお、宮中において伝承されております。
生糸・練糸・有職織物の染色(紅花による紅染め)