有 職 織 物
鶴ヶ岡八幡宮御神宝装束復元模造
小袿 (こうちき) 夏の料
原品は国宝 鎌倉時代
黄霰地文二陪織物
昭和初期、東京帝室博物館委嘱により
髙田義男 復元製作
柔和な質感、穏やかな色調、親しみやすい文様、いずれも上品な味わいを漂わす、もっとも日本的な織物、これが有職織物です。麗しい日本の自然と、そこに生きた朝廷を中心とする貴族の高雅な美意識によってそれは創造されたといってよいでしょう。
日本は東南アジアの季節風地帯にあって、まわりを海に囲まれた島国です。概して温暖湿潤な気候に恵まれ、その風土は四季折々に美しい姿を見せます。このような自然環境は日本人の生活や文化に強い影響を与えてきました。わが国の染織文化も例外ではありません。
同時に、日本は古くから先進外国文化の影響を受け、そこからのさまざまな技術導入に心を注いできました。ことに飛鳥、奈良時代に、大陸の質量ともに優れた染織文化が伝えられ、朝廷、貴族階級によって積極的に受容され摂取されました。このありさまは、こんにち法隆寺や正倉院に宝蔵されている染織品によって知ることができます。
このような、当時の貴族階級が大陸文化に心酔し、請来に努めた熱意はなみなみならぬものでありましたが、文化の基盤となる日本人としての生活意識まで大陸風になってしまったわけではありませんでした。平安時代になって、唐王朝の混乱、滅亡もあって中国と正式な国交が途絶えると、貴族はそれまでのような大陸風への傾斜を是正し、日本の風土に適応し、伝統的な生活様式に戻るように心がけました。いわゆる文化の和様化を行ったのです。
さて、平安時代以降、朝廷を中心とする貴族を公家と呼ぶようになりましたが、公家の住生活や衣生活が唐様(大陸的様式)から和様へ戻るようになりました。服装形式も弥生時代以来の南方系の要素が濃い、いわゆる直線裁ちで一枚着形式のものと、北方系の大陸式で立体的裁縫で上下二部形式のものが融合し、全体がゆったりとした直線裁ちで、しかも上下二部式のものとなりました。
また、夏向きに作られた日本の建築様式に合わせ、時候の寒暖によって襲ねを調節し、それとともに優雅な美しさを表現する襲ね着形式が発達しました。この形式の服装においては絵画的な文様は襲ねの中に隠れてその効果を発揮し難く、一部の場合に限られました。そこで、より整然とした反復文様の織物によって品格高く端正な美しさを表現したのであります。
有職について
公家も外国の高度な学問、芸術を尊重し、自国の古典文化とともに知識を深め、教養を積む努力を怠りませんでした。そして、従来より導入、完成に励んだ律令制国家の維持を理想としてきました。この態度は、彼ら自身が名づけた公家という呼称に如実に表わされています。公、すなわち国家を治め、公民を統括し、政治を行う階級という意識が内在していたと考えられます。
しかし、平安時代に入って貴族、寺社の大土地所有が始まり、荘園制の進行とともに律令制の根幹である公地公民制が崩れ始めました。
今までの公の土地とされていたものの私物化が進むとともに、政治の私物化も行われていきました。このように公家は公私の区別が曖昧になりながら、しかも公を意識する理想と現実の矛盾をなんとか解決せねばならない事態に苦しんでいました。
さらに鎌倉時代以降、武家の世となり、公家は新しい政治形態になじまず、ただ古代文化伝承の担い手としての位置を占める存在となってしまいました。彼らは、今や過去のものとなった王朝文化に対する憧憬もあって、一貫した保守主義によって、この誇り高い文化を支え伝えていくのです。この概念の根底にあったものが公家の規範ないし法式であり、これも有職と称しました。
有職とは元来「有識」で、学識豊かという意味をもつ語でありました。中世以降、前述のような事情から、有識が博識のほか、規範、法式の意に使われ、「識」の字が「職」に変えられ用いられることになりました。
具体的には、儀式、典礼、行事、官職、位階、殿舎、調度、輿車、服装、遊宴などに関する法式あるいは知識を指すものとなりました。したがって、調度や服装に用いられる織物も公家の法式に適うものでなければならず、材質、色彩、文様など公家様式に沿うものとされました。これは近代になって、他の範疇の織物と区別するために有職織物と呼ばれるようになりました。
有職織物の特徴
有職織物は、広義には平安時代以来公家の生活に使われた公家様式の絹織物を指しますが、狭義には江戸時代以来の、公家様式を順守し、ともすると類型化し、固陋のものとなった絹織物を指します。それらはいずれにせよ上品で端麗な美しさを湛えています。
平安時代に作られた公家の織物の母体となるのは、法隆寺や正倉院に伝えられているような七、八世紀の絹織物です。これらの、織物技法の優秀さ、種類が多岐にわたっていることは驚くばかりであります。文様についても中国をはじめとしてインド、ペルシャ、東ローマ帝国などの影響を受けたものが少なくありません。
このような異国的雰囲気のものは平安時代になって、他の美術と同様に和様化し、あまりに強烈なもの、恐ろしいもの、緻密なものなどは敬遠され、温和で優しい調子に整えられ、あるいは親しみやすい主題に変えられました。
有職織物は、調度、服装そのほか、公家の公私にわたる生活に用いられるものであるため種類はさまざまです。これを技法の上から区別すると、平織、斜文織、繻子織、もじり織の四原組織のうち、繻子織を除くすべてを網羅しています。平織においても品質によって、あしぎぬ、絹、かとり、練貫、精好などの別があります。
綾とは文(あや)で、二種の組織(斜文織)を組み合わせ文様を織り表わしたものです。白生糸で文織とし、生のまま(夏用)か練って白のままないし染色して用います。
織物と称するものは、公家の間では糸のうちに練るか、染色して織ったものに限られます。これに、無文、固文(固織物)、浮文(浮織物)の別があります。 二陪織物は浮織物によって地文を、縫取織によって刺繍のように見える上文を表わしたものです。
錦は二色以上の色糸を用いて地色と文様を織り表わしたものです。
そのほか薄物に紗、(こく)・こめおり、羅があり、それぞれ無文と有文の別が見られます。
有職織物の色彩と文様
律令制を建前とする公家社会においては、身分に従い、位階相当の色を用いました。すなわち当色の制が厳然と守られてきました。ことに公服の場合に、上着の色や地質は身分を示すものとして、その秩序維持への配慮を怠りませんでした。私服の場合は公服に用いられる色以外のものを用いるとされ、時に当色の類いの色を用いる場合は色の名称を変えて着用しました。
また、有職織物に織り表わされた文様にも規範があり、日本では求め得ない異国の草花鳥獣を珍貴なものとし、鶴のように尊い気品に満ち、長寿を象徴するもの、あるいは鳳凰のような霊鳥、麒麟のような霊獣など吉祥感を表わすものなどが格式の高いものとされました。そのほか、日常の私服に、身近で親しみのもてる草花蝶鳥などを上品に様式化し、まとめ上げた丸文や菱文などが使われました。また、端正に繰り返す律動的な唐草、立涌、亀甲、輪違(七宝)、小葵、青海波、幸菱(千剣菱)、繁菱、遠菱、三重襷、霰など上位の人の使用とされています。これらの中にも、かしこまった時、略装の時など使い分けを考慮しました。そこで公家様式という意を含めて、今日これらを有職文様と呼んでいます。非常に洗練化され、様式化されていますが、近親感溢れるものであるため、多くの人々に愛され、日本の文様の代表としていろいろな分野で用いられています。
いずれにせよ、数多い地質、色彩、文様を整理し組織立て法式化した有職織物、こういうものは日本ばかりでなく世界にも類いを見ないでありましょう。ましてその美と技術は一千年以上の間、宮廷を中心に生き続けてきました。この香り高い古典文化の大切さを改めて痛感するばかりであります。
有職織物製作の推移と髙田家による伝承
平安時代に、律令制の弛緩にともなって、わが国の織物発達に重要な役割を担ってきた織部司も衰退していきました。平安時代中期には織部司の独占維持が不可能となり、そこに所属する織手たちは私宅においても製織を行う傾向が現れました。そしてその後、このような機織の私営化が、唐様から和様織物への転換を更に促したと考えられます。
寛元四(1246)年に織部町が火災にあってから織部司の衰微が甚だしく、その隣側の大舎人町に住む大舎人が機織の技法を習って、貴族や武家のために織物を織っていきました。大舎人というのは中務省の大舎人寮に属して、宮中の雑用、宿直などをする役の者ですが、彼らはその後、座を結成して大舎人座として自立していきました。しかし最大の注文主である貴族や社寺から独立して営業することは困難で、さまざまな特権を保障してもらいました。
室町時代貞和二(1346)年、山科教言が宮中内務省の内蔵寮の頭(くらりょうのかみ)に任ぜられてからのちは、山科家がその頭を世襲し、宮中の織物や装束の調進を管掌することになって、大舎人方の一部は内蔵寮御用として織物製作に携わりました。
応仁の乱と、その後に続く戦国の乱世は、伝統的な公家の織物の製作環境に甚大な影響を与えることになりました。大乱終息後、難を避け離散した大舎人座の人々は、山名宗全の本陣であった西陣の跡地に機織を再開し復興しました。そして綾の独占製織を保証され、また天文十七(1548)年に、大舎人座のうち三十一家は足利将軍家の被官人となって保護を受けることとなりました。元亀二(1571)年には、三十一家のうちの六家が内蔵寮織物司に任ぜられました。これは井関、和久田、小島、中西、階取、久松の六家です。彼らのあいだでの品質についての管理は、互いに厳格で責任感の強いものでありました。このあと公家の織物の製作はこの六家を中心として受け継がれてきましたが、江戸時代に、六家の中に変遷消長がありました。江戸時代末期、井関家が二家となり、そのうちの一家を小島家が継ぎ、中西家のほかは、階取家が絶え、和久田家を三上家が継ぎ、久松家は小林家が継いで五家となりました。
明治維新となり、宮中装束調進の管掌は宮内省が取り扱うこととなって、内蔵寮の管掌が廃止されました。このため御寮織物司の制も解消となりました。そこで小林家、三上家以外は廃業し、これら二家もその後転業されたため、有職織物製作の伝統も消滅の危機にせまり瀕しました。こういう事態となって、幾百年来、内蔵寮御用装束調進方として勤め、江戸遷都に従って京都から東京に移り、宮内省御用達として引き続いて装束調進に携わっていた髙田家が必要とする有職織物の調達に困難をきたし、折しも伊勢神宮の御遷宮をひかえて、御神宝装束製作のため、明治二十年、東京に織物工場を設け、優れた技術者が京都より派遣され、操業しました。
いっぽう、冠羅(中世以降は無文羅)は京都の高木重助氏という織り手が製織しており、髙田家二十三代 高田義男はその技法を参考とし、正倉院の羅を研究して大正時代末に東京の織工場にて文羅の復元に成功しました。(佐々木信三郎「羅技私考」の記述に実情と異なるところがある。文羅の研究および、復元は髙田義男個人が行ったもので、年代についても、大正十五年に東京の織工場にて文羅製織に成功し、髙田義男の監督、指揮の下で、昭和二年より京都の織工場製織技術主任の喜多川平朗氏と共に正倉院宝物羅、錦、綾など調査、復元をはじめている)
それから後にして、京都の川島織物の佐々木多次郎氏も文羅の製織に成功したことを知り、髙田義男は協同で研究することを提案しました。しかし佐々木多次郎氏は奉職する会社との関係から、それは実現しませんでした。なお、昭和四年の伊勢神宮御遷宮に際しての御神宝装束調進では、髙田義男による文羅の復活が認められて、がんらい文羅で製せられていたが、近世においては紗で代用されていた裳、翳、鏡の羅紐などを文羅の復活によって製作しました。
すでに昭和二年、髙田義男は伝承されている有職織物の製作とともに、さらにその源流となっている正倉院宝物染織品をはじめ古代、中世、近世初期の古典織物の調査、復元を志しました。先ず正倉院染織の調査、復元につき指揮監督として、時の帝室博物館大島義脩館長より委嘱を受け、ついで平安時代以下の織物、衣服等の調査、復元にも取り掛かりました。
その頃、たまたま惜しくも家業を止めることとなった、唐織によって名を知られる俵屋・喜多川家の伝統の断絶を髙田義男は残念に思い、その技量の優れた点を認めて、昭和二年より、同家の平朗氏をこの髙田義男監督復元事業の京都織工場製織技術主任に起用しました。
そして、その後も俵屋・喜多川の復活を願って、髙田義男は喜多川平朗氏の独立を助けました。
なお、染色主任として際立った技術を持つ大江重次郎氏が迎えられ、織物の調査研究と並行して、古代の植物染料による染法を研究復活し、その成果を織物復元に応用しました。同時に、黄櫨染、紅花染そのほかの染色復活が宮内省に認められ、昭和御大礼に際して御装束調進に採用されました。
戦災と敗戦後の社会の混乱は、髙田家の業務にも打撃を与え、有職織物製作の存続も危ぶまれる状態となりました。このような困難をどうにか乗り越え、有職の灯を絶えさぬことができ、現在に至っております。