明治、大正、昭和の髙田家 業績
昭和15年 浦安の舞、悠久の舞、昭和楽の舞など衣装等の考案製作
(紀元2600年奉祝祭典)
昭和15年、皇紀2600年を記念に当るので、宮城外では紫宸殿に模したものが建てられ、国を挙げて奉祝祭が行われました。この際行われた奉祝舞は2つあり、ひとつは「浦安の舞」、もうひとつは「悠久の舞」でありました。これらは当時楽長であった多忠朝氏が作曲、振付され、髙田義男が、一切の衣装の考案製作を行いました。浦安舞は舞人が女子であるので、平安朝形式のもの(女房装束に近いもの)を考え出しました。もうひとつの悠久舞は男子であるため、天平形式のものとしました。
奉祝会当日は全国の神社で一斉に奉奏されました。
浦安の舞は昭和天皇御製の御詩に作曲、振付がなされ、現在でも各神社で大祭の時に行われております。元をただせば髙田義男が考案し、製作した衣装をもとにして、現在も衣装の変遷がありながらも伝えられているわけです。
(正式には俗称十二単を使用し、檜扇、鈴を手にすると各神社では言っておられますが、現在では段々と衣装が簡略化されているようです。髙田義男の考案した衣装が現在もなお「正式」とされているようです。)
悠久の舞は、蒙古襲来において宏覚禅師が詠んだもので、もともとは男子の舞であり、これもまた衣装の一切を考証し、考案、製作いたしました。
また記念祝典行事に際し、宮内省楽部で舞楽「昭和楽」というものを、これもまた多忠朝楽長作曲、振付をご担当され、髙田義男が宮内省より御下命し、四人舞の鎧等一切を考証、製作し、新規に衣装考案をいたしました。上古の武人形式の衣装を製作しましたが、1度演奏されただけでした。この衣装は古い武装形式を研究し製作されてものであり、髙田義男が当時製作したもの以外には現在作られていない伝説のものです。