色標本「かさね色目」 推薦文







「かさね色目」を推す           

山邊知行氏


 ・・・・・・前略・・・・・・平安時代の公家文化・・・・・・その中でも、服飾に於ける女房装束の完成はその代表的なものと言えるであろう。そしてこれに伴う襲ねの色の美しさ、単色の濃淡と対比、これが着用者によって個性的に構成されて行ったすばらしさは目を瞠るばかりである
 この襲ね色が有職の故実として集大成されたのが「襲色目」で、これによって各襲ねの名称が明らかにされ、これと季節との交流もはっきりと示されるに至った。 ・・・・・・中略・・・・・・
 今回、髙田倭男氏の主宰する髙田装束研究所で、かねてから企画、製作中であった「かさね色目」がいよいよ完成して、その頒布が行われることになった。髙田家は古くから皇室の御用をつとめた装束師の家柄で、古典染織、服飾に関してその博識と経験で、並ぶ者のなかった先代、故髙田義男氏が、戦時中の昭和十八年に作られた「かさね色目」を基としてその子息である倭男氏が更に諸文献を参考とし、染色の実地に徹して補足更訂したもので、言わば父子二代にわたって完成されたもので、この種の見本帖としての決定版と言うに足るものであろう。
 ひとり有職染織のみならず、歴史学や国文学、美術史などにたずさわる方々にも大いに約立つものであることを確信してあえて推薦する次第である。






白洲正子氏 


  あさみどり糸よりかけて白露を玉にもぬける春の柳か
  見わたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける

 これらの歌に私たちが聯想するのは、自然の風景描写より、王朝女房たちの優雅なよそおいであろう。それもただ美しい色彩を対応させているのではなく、朝露のすけて見える柳の糸に清新な春の気配を感じさせ、柳の木の間に桜の花が見えかくれする風情に、錦の織物を重ねた女性を彷彿させる。特にこの二首の歌にかぎるわけではない。平安時代の歌集をみれば、そのまま女の装束に転用できる歌は無数にあり、文学と染織が、互いに影響しあっていたことがよく判るのである。
 そういう意味で、「かさね色目」の微妙にして複雑な美しさは、王朝文化を象徴しているだけではない。広く日本人の美意識の原点を示しているように思われる。三十六人家集の色紙はもとより、武家の鎧のおどしや刀の下緒にも、桃山時代の辻が花や刺繍の技法にも、加賀友禅のぼかし染めにも、はては芭蕉の「ほろほろと山吹ちるか瀧の音」の匂に至るまで、紀貫之の歌の調べと、「山吹のかさね」の色目がひびき合って、平安朝以来の日本の伝統が生き生きと流れていることに気がつく。そういうことに気づかせて下さった髙田倭男さんの永年の労作に、私は感謝したい気持でいっぱいである。




「二代の縁」  白洲正子氏   (抜粋)

 私が子供の頃、髙田さんの家は麹町中六番町にあった。・・・・・お庭の中には別に資料館が建っており、そこには復原された平安時代の調度類、たとえば蒔絵の硯箱とか螺鈿の卓といったようなものが所せましと並んでいた。いずれも倭男さんの父上の義男氏が、技術が失われるのを恐れて、自から指導のもとに造らせておいたものに他ならない。
 その頃私の実家は麹町平河町にあり、お互いに近かったのでよく行き来をした。そうでなくても私の母は凝り性で、王朝文化に熱中していたから、暇さえあれば髙田家へ通った。半分は趣味、半分は勉強といった感じで、髙田さんはうるさがりもせず、親切に教えて下さった。そういうときはいつも私を連れて行き、・・・・・美しいものが並んでいるので、何時間眺めていても飽きることがなかった。
 たまたま天平時代の服装ができてきたりすると、私に着せておいて、髙田さんの説明を聞きながらうれしそうに眺めていた・・・・・髙田さんはそんなことまで実地に研究されていたのである。
 義男氏が当代一の有職故実の大家であることは、子供心にも明白であった。何といっても彼の強みは自分で工房を持ち、実際に作ってみることができたからで、その点が知識だけの学者とは違っていた。・・・・・義男氏には何となく縁の下の力持ち的なところがあり、黙々と研究したものを惜しげもなく他人に分ち与えるような性格だったから、彼の周辺にはいつも若い研究家や芸術家が集まっていた。前田青邨や安田靫彦の歴史画は、髙田さんの研究に負うところが大きいのであるが、・・・・・有職故実の世界は、深く入れば入るほど面白くなるものに違いない。
 ・・・・・髙田さんとの付き合いはその後もつづいた。・・・・・後に私が日本の古美術に興味をもったのも、そして、その源泉が平安朝の文物にあることを知ったのも、ひとえに髙田さんのお陰だと思っている。・・・・・
 平安朝の「かさね色目」について、出版を考えて聞いたのはたしか十年ほど前のことだったが、それがどんなに大変なしごとであるかは今まで一つも集大成した本がないことでも私には想像がついたいや、想像もつかなかったという方が正しいであろう。多少の文献はあっても、実物はないのだから、平安朝全体のヴィジョンをつかむことが先決で、復原ではなくて創作を意味する。そのためにはよほどの知識と身についた教養と、それに何よりも愛情を必要とする。倭男さんは、それを自分の宿命と感じたに違いない。彼以外の誰にもなし得なかった仕事が、見事に完成した今日、よけいな紹介や解説は不必要で、「ごらんのとおり」という他はないのであるが、厖大な「かさね色目」の著書を前にして、それに費やされた先祖代々からの歳月と、情熱と、努力を、私は想ってみずにはいられないのである。・・・・・



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